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責任を追及するということ

 思えばそれが僕の数多い欠点のうちでも大きい方のものだろう。僕は人の責任の追及を徹底することができない──
 いつでも、自分を相手の立場に置き換えてみて、相手の振る舞いの背後のさまざまな事情を推し量ってしまうのだ。同じような立場におかれて、同じような事情があったのであれば、自分だってそうしたかもしれない、仕方がないよ、と思ってしまう。あるいは、責めてみたところで何が変わるというのか、むしろこれ以上の事態の悪化を防ぐための方策を考えた方がよい、などと。多少の負担を僕個人かかぶることとなっても、とりあえずは対応策の方へと僕の頭は向かってしまう。
 しかし、これは単に気が弱いというようなことではなくて、やはり、無責任さの表れなのだろう。相手の引き起こした損失をきちんと評価せず、その失敗の原因を究明せず、相手の謝罪と再発防止の措置を求めないままに済ましてしまうというのは、結局は「いいかげん」に物事を済ませることなのだ。それはわかっているのだが。
 相手を責めない、それはいろいろと面倒だから、というのは、相手を非難するためにはきちんと事実を整理して原因を明らかにし、相手を「おそれいりました」といわせるためには「罪状」を切り分け、自分ならこうするという正しい代替策を提示する必要がある。要するに、相手より優れた者が、相手以上の問題処理能力ある者だけが、相手を非難でき、その責任を追及できるのではなかろうか、僕にはできそうにない、と思ってしまうのだ。
 では、責めないまでも怒れよ、といわれる。
 そうすべきなのだろう。だが僕は、むしろ諦めてしまう── これって、一種の「甘えの構造」なのだろうか。

 戦争責任から不貞、水道水「温泉」の告発まで、声高に責任追及と非難が飛び交う日に。
 
by kriminalisto | 2004-08-15 20:27
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