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「べトンの要塞」

学会とあって,久しぶりに中央大学多摩キャンパスへ。ますます建物も増え,要塞は拡張の一途をたどっている。立川駅からのモノレールが繋がり(2000年のことらしい),格段に便利になったが,そのためにますます非現実的な空間になったような気がする──モノレールの駅に降り立つと,周辺に民家の一軒も喫茶店の看板も見ることなく,そのまま直接にキャンパスに入ると,この日はたまたま「ホームカミングデー」ということで,白く輝く無機質な建造物群の間に,多くの卒業生らしい年配者が集っていた。ここが彼らの「ホーム」だというのは,何かの冗談のような気がしたが。
もちろん,勉強するのには最上の環境だ,ということなのだろうが,30年近く前に初めてキャンパスを訪れた時の印象が薄れない。
学会のほうは,まあ,研究報告もシンポジウムも,それなりに興味のある内容で,勉強にはなった。
そして,何人かの知己にかけられたのは予想通りの言葉──新司法試験の結果に関わっての「大変だったね」だった。彼らがどんな気持ちでそのように言っているのかは,あえて,斟酌しないことに決めてはいても,当方の身に応えることに変わりはない。
この間にいろいろの「反省」と「検討」があり,「見直し」や「改善」,「強化」の作業が進められたが,僕個人にとっては何ごとも救いにならない。何よりも,指導した学生たちの中の不合格者たちの顔が思い浮かぶのだ;その誰一人として,恨みがましい非難を口にしないだけ,なおさらに僕自身の自責の気持ちは強まる。もっと厳しく,もっと的確な,指導を重ねるべきだったのだ。お互いに未経験とはいえ,少なくとも教師として,全国的な状況と彼らの力量とをより客観的に見ることができたはずだし,できなかったというのであれば,それをするための方途を尽くすべきだったのだ。この露呈された力量の不足をどう埋め合わせればよいのだろうか── 
法科大学院の制度としても,未修者第一期生が出揃う来年の試験が,おそらく,最後の検証の開始を告げることになるだろう。いかにその時に臨むか,いずこの大学も悩みは深いはずだ。
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by kriminalisto | 2006-10-23 19:57 | 日記・コラム・つぶやき

当事者主義の訴訟は

ちょっと確認したい点があって,学生時代から手もとにある平野龍一博士の刑事訴訟法の教科書を開くと,「当事者主義の訴訟は,合理的な精神を前提とする。」との一節が目に飛び込んできた。
続けて,「当事者主義訴訟は,国家権力を悪とし,『権限を持つものには権威を与えてはならない,権威を持つ者には権限を与えてはならない』とする思想を背景とする。そしてはじめから(すなわち,捜査機関の)権力の行使を制限しようとするのである。しかし,現在の都市化し,社会化した国家においては,国家権力をただ排斥するだけでは,すまされない。捜査機関に多かれ少かれ,権限を与えざるをえなくなる。これを否定して当事者主義の形骸だけを維持しようとすると,権力は法外の暴力となり『保障のない糾問主義』(Inquisitorial system without its guaranty)となる危険もある。そこで,むしろ権力に権限を与えて,そのかわりにこれを法的にコントロールした方が得策ではないかという問題がおこる。」
懐かしい平野先生の肉声を聴く思いがする。奥付で確認すると1958年初版・1967年初版第19刷となっている。であれば,現行刑事訴訟法の施行10年ほどの時期に,気鋭の刑事訴訟法学者としての先生が書かれた文章だということになる。正直,すごいなと思う。
この一節には,当時よく使っていた青い色鉛筆で傍線が引かれている── が,20歳になったばかりの僕は,何を理解したつもりになっていたのだろうか。

学部学生のコンパに付き合った後,これから季節はずれの花火で遊ぶという彼らと別れ,久しぶりに先斗町のウオトカ・バーへ。意外にも客は誰も居らず,ゆったりとマスターのNさんと世間話。最近はこれが人気があります,と勧められた《スタンダルト》は,たしかにずしりと手応えのある味だが,何かしら特徴がない。《スタリーチナヤ》を重くしただけのような感じ。これがスタンダルト(基準)か,と思うとつまらない。むしろ《デルジャーヴナヤ》の方が,僕には好みだ。まあ,実際には,ラベルそのままに颯爽とした《クバンスカヤ》を味わうことができないのなら,何でもよいのだが。
もっぱら《デルジャーヴナヤ》を注いでもらい,当事者能力の残っているうちに帰宅。
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by kriminalisto | 2006-10-04 09:56 | 日記・コラム・つぶやき

腎臓を売る

メディアが一斉に伝えるところでは,愛媛県で昨年行われた生体腎臓移植手術をめぐって,臓器売買の事実があり,臓器移植法違反で元患者と仲介者の2名が逮捕されたとのこと。( http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061001it11.htm )
約束した対価が実際に支払われなかったことから,臓器提供者が警察に相談するなどして発覚したようだが,やはりそうか,という感想だ。
一方に臓器を必要とする人がいて,他方には提供したい人がいる──問題は,その両者の間に存在する経済的な格差だ。移植医療は無料ではない。そして,間違っても,豊かな側が貧しい側に臓器を提供するようなことはないのだ。
腎臓移植手術の場合,健康保険の適用を受けても,予後の対応を含め1年で600万円程度の負担が必要とされている。となると,そのような医療を受けられる人と受けられない人とが生まれるのは当然だが,ここにはさらに,提供される臓器の少なさから来る「臓器獲得競争」が生じざるをえない。つまり,高い値段をつけた人のところに,優先的に臓器は行くのだ。そんなことはない,との叫び声が起こりそうだが,しかし,腎臓提供者を求め中国や東南アジア諸国で移植手術を受けようとする日本人が多く存在することをどう考えるべきなのだろうか。国内でも,実際には,今回の事件のような事例は多く存在したのではないだろうか。
「臓器移植ネットワーク」のような団体の活動が,きちんとした透明性を獲得し,日本社会で広く受け入れられるまでには,まだまだ時間がかかりそうだ。そしてその他方で,死後の臓器提供を自ら選ぶ人を,脳死論議の性急さが戸惑わせている。
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by kriminalisto | 2006-10-02 00:13 | 日記・コラム・つぶやき