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射水市民病院の事件

 昨日の夕刊で報道された射水市の「安楽死」事件について,今日の新聞各紙とテレビ・ニュースが争うように様々の報道をしている。この場合,やはり問題なのは末期段階での延命医療打切りについて患者自身の真摯な嘱託があったかどうか,患者が意思表示できなかった場合には,その肉親の「人間的な」申し出があったかどうかだろう。法的にはさまざまな手続きが要請されるにせよ,真に死期が切迫した状態の下では,それが唯一かつ最終的な条件だろう。今回の射水市民病院外科部長の対応が,その条件にかなったものだったかどうか──今後明らかにされるだろう事実経過にそくして,判断されなくてはならない。
 毎日新聞の記事では,末期医療について,延命治療中止を望む国民は7割を超え,医療関係者では8割に達した,という厚生労働省「終末期医療に関する調査等検討会」の03年の世論調査結果を紹介している。おそらくそのようなところが多くの人の実感だろう。とかく元気な人は,自身についても「余命いくばくもないのであれば,無理をして生かしてもらう必要はない」と考えていることが多いものだ。
 この問題には,しかし,もう一つの側面がある。それは高額に上る医療費の問題だ。末期のがん患者の延命に費やされる,基礎的な入院費用に加えての人工心肺装置の使用経費,抗がん剤その他の医薬品代,差額ベッド代等々,気の遠くなるほどの費用負担に誰もが耐えるわけではない。肉親であれば,しかし,生活費を削り高利の借金を重ねてでもそれに耐えねばならないのであろうか。とてもそうとは思われない。では,患者の費用負担の限度に応じて,末期医療の密度と期間に格差を設けるのか。おそらく,医療現場で実際にはそのような「死の不平等」は進行しているのだろうが,しかしそのことが正面から語られることはない。
 ここには関係者すべてが知らん振りを決め込んでいる欺瞞があり,そのことを抜きにした「安楽死」論議にはいささか冷笑的にならざるをえない。
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by kriminalisto | 2006-03-27 00:16 | 日記・コラム・つぶやき

鷗外の「妄想」

 昨年末に,結局,Clieを諦めて,NOKIAのスマートフォン(6680)に乗り換えたのだが,これまた様々につつきまわして,日程管理ソフトやBook Readerをインストールしたりフォントを読みやすく変えたりして,それなりに安定した使用環境になっている。そこに,"青空文庫"からいくつかのファイルをダウンロードして,バスの中などで他に読むものが無いときにはそれを読んでいるのだが──
 昨日,偶然に目にとまった文章。とても,100年近くを隔てて聴かされた言葉とは思われなかった。

 「生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策(むち)うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪(あくせく)してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上(しあ)げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後(うしろ)に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策(むち)うたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが醒覚(せいかく)する暇(ひま)がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後(うしろ)の何物かの面目を覗(のぞ)いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭(むち)を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。背後(うしろ)にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を醒(さ)まさう醒(さ)まさうと思ひながら、又してはうとうとして眠つてしまふ。此頃折々切実に感ずる故郷の恋しさなんぞも、浮草が波に揺られて遠い処へ行つて浮いてゐるのに、どうかするとその揺れるのが根に響くやうな感じであるが、これは舞台でしてゐる役の感じではない。併しそんな感じは、一寸頭を挙げるかと思ふと、直ぐに引つ込んでしまふ。
 それとは違つて、夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思ふことがある。それからその生涯といふものも長いか短いか知れないと思ふ。」
                              森鷗外 「妄想」(1911年)
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by kriminalisto | 2006-03-10 20:09 | 日記・コラム・つぶやき