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成績評価ということ

夏休みを控えて,現在は定期試験の季節とあって,ゼミの掲示板にも試験がらみの情報が多く登場する。
その中に,目を引くものがあった:
  家族法の**先生はおっしゃいました。
  「ゼミの授業を落とすようなやつは死んでしまえばいいと思います」
これを書き込んだ学生は素直に,だからせめて所属ゼミの先生の担当している科目では頑張って高い評価を獲得しようと呼びかけているのだが(なんてけなげな!),こちらの連想は別の方向へ行く。これって,逆ではないのか,と。むしろ:
  ###ゼミの*****君は言いました。
 「ゼミの学生を落とすようなやつは死んでしまえばいいと思います」
ではないのか。

先日,いくつかの法科大学院で自己評価の報告が公表されていた中に,ある科目で「受講者=受験者80数名,試験合格者 0名」というのを見たときにも感じたが,以前,何人かの同僚も,数百名が受験した定期試験で70数パーセントが不合格だった,とむしろ誇らしげだったことに,強い違和感をおぼえたことだった。この人たちにとって,教育というのはいったい何なのだろうか。いかに自分の講義が高水準であり,満足な答案を書くことができる学生などほとんどいないのだ,ということを確認するため(だけ)に教壇に立っているのだろうか。
理解に苦しむ,と言うほかない。
自分の担当する科目を受講する多くの学生に,そのすべてに,何一つ教えられなかったということではないか。むしろ恥じ入って深刻に考え込み,教育の内容について,方法について,そして評価のあり方について,改善の方途を探るべきなのだ。

まして,自分の指導するゼミに属し,自分の専門とする分野に興味と関心を持つ学生ではないか。その学生たちに,一般の学生たちにも増して十分な知識を与え,問題意識を発展させ,意欲的な課題を与えないでおいて,ただ「試験結果は不合格」だった──などということがどうして平静にできるのだろうか。再度,理解に苦しむ,と言うほかない。
理解できない僕の方が間違っているのだろうか。
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by kriminalisto | 2005-07-28 21:52 | 日記・コラム・つぶやき

『コカイン・ナイト』

祇園祭りの宵山から大文字の送り火まで──これが京都の夏の中の夏だ。いよいよそれに差し掛かって,このところ毎日暑い。
ここしばらく,体調その他諸々でこのブログに向かう気力を失っていたのだが,このままではずるずると夏休みに入ってしまいそうなので。
通勤電車+バスの中での読書の,最近の収穫はJ.G.バラードの『コカイン・ナイト』。翻訳がすでに2001年末に新潮社から出ていたものが,最近,文庫本として発売された。『結晶世界』などのバラードのSFは読んだことがあるが,それもずいぶん昔のことで,正直,彼のこの系統の作品にはなじみがなかった。書店の棚に見つけて,さして期待もせずに読み始めたのだが,これは予期しない発見だった。
この本の内容は,南欧スペインの高級保養地を舞台としたミステリー仕立てとなっている。イギリス人の旅行作家チャールズ・プレンティスが,この地に足を踏み入れ,重大な放火事件の犯行を自白した弟のことばを信じずに,真犯人さがしを試みることから物語りは始まる。弟を知る人の全てが,心から弟の無実を信じているらしいことがわかるが,それでも,弟の自白をそのままそっとして,イギリスに帰るように勧める。やがて,チャールズには,この地上の天国を思わせるような,主にイギリスの退職したエリート層のために作られた高級住宅地に,巧妙に組織された悪徳のネットワークが存在することがわかってくる──
弟が責任者を勤めていた「クラブ・ナウティコ」を中心に,スポーツクラブや麻薬,売春ににぎわう保養地エストレージャ・デ・マルとそれに隣接する閑静な高級住宅地域・引退したブルジョアが過ごす集合住宅地域レジデンシア・コスタソルとの対蹠的な図式が巧妙だ。後者こそは,一つのありうべき未来を象徴する場所に他ならない。張り巡らされた監視カメラと万全のセキュリティシステムによって過剰なまでに保護された,この閉鎖社会では,まだそれほどの高齢でもないのに,事実上社会の全てから引退した住民たちが生きる気力を失い,音を消した衛星放送の画面をぼんやりと眺めるだけの「仮死」状態に陥ってしまったような世界,そこには子供の姿もまったく見当たらない。
これは異常であり,断じて拒絶されるべきだ,人々をそこから取り返し,世界に参加させなくてはならない,とチャールズにボビー・クロフォードが言う。この,見る者すべてを魅せずにはおかないスポーツマンこそ,類まれな弁舌の才と行動力に溢れた,アジテーターであり,また実際の指揮者・組織者なのだ。彼は言う,犯罪こそがそんなまどろむ共同体を活気づける「中枢神経刺激剤」だ,と。

近い未来のわれわれの生活が,ここで描写されるような満ち足りたものになるとは信じられないが,それでも,過度の監視と配慮の下に組み立てられた安全が社会の活力を奪ってしまうというメッセージは明瞭に響く。言い換えれば,適度の危険と犯罪への不安は,健康な社会に必須の同伴者なのかもしれない。
いくつかの書評に斜めに目を通したが,多くの評者が,ここに描かれた反ユートピアの予言的なリアリティと,その破壊を実践しようとする「カリスマ」に言及している。言われるように,弟フランクの自白をもたらした彼の罪の意識の正確な分析も興味あるテーマだろう。
だが,不思議と一つのことを指摘した書評はなかった。読むにしたがって,クロフォードとスタヴローギンとが,ときに重なり合い,ときに対話しているかのような感覚に,たびたび捉えられたのだが。
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by kriminalisto | 2005-07-17 20:08 | 日記・コラム・つぶやき