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性犯罪者の更生

  今の時期,雨が続いた後の晴れた風の強い日,というのは花粉症にとっては最悪のコンディションだ。鼻をかみすぎて鼻の下は赤くただれ,目は腫れぼったい涙目で── 考え事など全くできない。

  先日,性犯罪者の更生というのは難しい問題だ,出来上がった人格の改造などどうして可能だろうか,と書いたら,学生から反論を食らってしまった。彼の言うのは,犯罪者の「更生プログラムは元性犯罪者の再犯を防ぐことが目的であって、彼らの性的嗜好自体を変える必要はない」のではないか,であれば,そのことは可能なのではないか、ということだ。いいところをついている。ついでに,彼は「そういった目的の更生プログラムや治療は許されない」とも主張する。それは本来的な人間存在のあり様に手をつけようとするものだから。
  上のような意見には喜んで賛成するべきだろう(人格の尊厳,絶対の自由よ讃えられてあれ)。
  しかし問題は,この種の犯罪者たちの場合,彼らの犯罪とその性的嗜好とがあまりに強く結びついていて,後者に手をつけずに前者の改造が可能か,という辺りにあるのではないだろうか。たしかに,いわゆる「ロリコン」や「×××フェチ」の男性は掃いて捨てるほどいて(その手の読者をターゲットにした雑誌やビデオといった商品の存在でも明らか),しかしその大部分は実際には犯罪には出ない。であれば,性犯罪者をその程度にまで更生させればよいのだ,と言うのだろう。しかし,そこに存在するのは「程度」ではなく「性質」なのではないだろうか── つまり,標準からは外れた性的嗜好を持ってはいても,なお「境界内にとどまる」性倒錯者と,その嗜好上必然的に「犯罪に至る」性倒錯者とがあり,両者はもともと違った性質のものなのではないだろうか。
  「境界内にとどまる」性倒錯者は,犯罪的な妄想を膨らませることはあっても,めったにそれを実行に移さないのであり,だからこそ,彼らを常に性犯罪者予備軍と見る必要もないのだが,「犯罪に至る」性倒錯者の場合は,そのような想像力自体を欠き,犯罪的行動によって直接に自分の性欲を満足させることをめざすのだ。そのような嗜好であり,倒錯であるのだ,と考えるべきなのではないだろうか。であれば,後者の「更生」はいかにして可能なのだろうか。
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by kriminalisto | 2005-03-19 20:45 | 日記・コラム・つぶやき

ガロア──神々の愛でし人

 今朝の毎日新聞「余録」欄を読んで驚いた。ここ。東京の中学生ら6人が一定のルールを決めて殴り合いをしたことが決闘罪にあたるとして検挙されたというニュースに関連して,「決闘罪ニ関スル件」について触れたコラムだ。
 驚いたのはわが国での決闘罪の運用についてのくだりではない。決闘罪が実務に時おり登場することは,"業界"では常識だし,過去の判例集を検索してみても相当数がヒットする。
 そうではなくて,このコラムで僕の驚いたのは,有名なガロアの決闘事件が,「最近の伝記では、何とその死をきっかけに共和派が暴動を起こすため、ガロア自らが提案した偽装決闘との説が唱えられた」という部分だ。まさに,「にわかに信じがたい」というほかないが,彌永昌吉著『ガロアの時代・ガロアの数学』(シュプリンガー・フェアラーク東京)を読むべきなのだろう。
 僕の手もとにあるのはL.インフルト著『ガロアの生涯』(日本評論社1969年)だが,取り出して奥付を見ると,「1972年3月3日読了 Yk.のことを想う」という僕の書き込みがある。一瞬,当時の百万遍の下宿の自分の部屋に戻ったような錯覚が襲う── この本は当時の学生たち(の,もちろん,一部)にとっては一種のバイブルだったものだ。20歳で決闘に倒れた不世出の数学者,熱狂的な共和主義者。読み終えての僕の感想はさまざまにあったに違いない。上の書き込みは,遠く離れて,当時の僕と同じように,たしかなものを求めてあがいているに違いない,尊敬する,数学の才能に溢れた,しかしさまざまに悲運な友人のことを想ってのものだ。だが同時に,おそらくは,自分自身を待ち受けているであろう,大きな黒いもののことを想い,それに身構えていたのだろう。
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by kriminalisto | 2005-03-06 00:37 | 日記・コラム・つぶやき