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和歌山刑務所へ

写真で見たとおりに,国道24号線側に面した和歌山刑務所は,青磁がかった色合いのタイルとガラスの壁が目立ち,とても刑務所とは思われぬ建物だった。これは管理棟だが,その背後の塀も比較的低く,目立たない。
30年ほど前にM先生のお供をしてここを訪れた際の印象は,多くはぼやけてしまっているのだが,しかし塀はもっと高く,建物も威圧的だったと思う。内部も清潔に維持管理されている印象。受刑者の居房は例の星型のものだったはずだが,これも新しくなって,並行した3棟の二階建てになっている。工場は縫製作業が中心。外部通勤制の試みとして注目されていた「いずみ寮」が廃止されたのは,結局,刑務所当局の人手不足が遠因のようだが,残念なことだ。
ここもまた過剰収容の状態で,500の定員に対し686名(137%)を収容,定員6名の雑居房に8人を入れ,布団は7組しか敷けないので,布団を出した押入れの上段が8人目のベッドになるという状況で,このベッドはなかなか人気があるという。収容者の中に外国人が混じるのも,昨今の状況からすれば,当然ということだろう。
舎房を見せてもらっている際に築4年のはずの壁のところどころにカビらしい汚れが見えた。「多数の者が生活しているとどうしても湿気がこもりまして」と案内の刑務官が説明 ──だが,僕は別のことを連想していた。

今回,学生を伴って少し足を伸ばし和歌山刑務所を参観することにした動機の一つは,ここにゾルゲ事件の関係者が収容されていたことを思い出したことにある。(参観から帰って,確認のために段ボール箱をかき回して探し出した。尾﨑秀樹『デザートは死』(中公文庫1998年)で読んだのだ。)
ゾルゲ事件に関与して1941年9月に検挙された北林トモは,クリスチャンとしての立場から反戦平和のための運動に共感し,宮城与徳の在米中の活動に協力したことをとらえて,治安維持法・国防保安法違反で起訴された。判決は懲役5年。当初の収容先は知らないが,和歌山刑務所が女子刑務所となった44年春にここに移されたのであろう。45年2月に危篤状態で保釈,数日後に死亡した。58歳だった。
強く印象に残ったのは,その病名だ。疥癬だったという。
和歌山刑務所で彼女が入れられたのは北向きの独房で,唯一の窓からも陽は差さない。湿気と不衛生のために,最初は手の指の間に始まった疥癬が,一月と経たぬ間に全身に広がり,かさぶたができ膿疱がつぶれ,それがまた新しい膿疱をつくり,悪臭を発するようになり..... そして当時の食糧事情からくる栄養失調。一般社会に居れば何の変哲もない皮膚病に過ぎない疥癬が,大柄だったという一人の女性を簡単に殺してしまったのだ。 懲役刑はたしかに自由刑の一種だが,その執行条件によっては生命刑ともなりうるということが,ここにもよく示されている。
キリスト者として,「わたしは一人で祈りたい。平和は必ず勝つ。」と繰り返していたという北林トモ。「写真花嫁」として34歳でアメリカに渡り,農業に従事する夫とともに平凡な家庭を営み,洋裁の私塾を開いてもいたという彼女は,帰国後に囚われの身となり病に犯されたこの和歌山の地で,ロサンジェルスでの陽光あふれる日々をどんな想いで振りかえり,夢に見たであろうか。
和歌山からの帰途は気分が沈んだ。
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by kriminalisto | 2007-01-19 15:11 | 書籍・雑誌