カテゴリ:日記・コラム・つぶやき( 54 )

成績評価ということ

夏休みを控えて,現在は定期試験の季節とあって,ゼミの掲示板にも試験がらみの情報が多く登場する。
その中に,目を引くものがあった:
  家族法の**先生はおっしゃいました。
  「ゼミの授業を落とすようなやつは死んでしまえばいいと思います」
これを書き込んだ学生は素直に,だからせめて所属ゼミの先生の担当している科目では頑張って高い評価を獲得しようと呼びかけているのだが(なんてけなげな!),こちらの連想は別の方向へ行く。これって,逆ではないのか,と。むしろ:
  ###ゼミの*****君は言いました。
 「ゼミの学生を落とすようなやつは死んでしまえばいいと思います」
ではないのか。

先日,いくつかの法科大学院で自己評価の報告が公表されていた中に,ある科目で「受講者=受験者80数名,試験合格者 0名」というのを見たときにも感じたが,以前,何人かの同僚も,数百名が受験した定期試験で70数パーセントが不合格だった,とむしろ誇らしげだったことに,強い違和感をおぼえたことだった。この人たちにとって,教育というのはいったい何なのだろうか。いかに自分の講義が高水準であり,満足な答案を書くことができる学生などほとんどいないのだ,ということを確認するため(だけ)に教壇に立っているのだろうか。
理解に苦しむ,と言うほかない。
自分の担当する科目を受講する多くの学生に,そのすべてに,何一つ教えられなかったということではないか。むしろ恥じ入って深刻に考え込み,教育の内容について,方法について,そして評価のあり方について,改善の方途を探るべきなのだ。

まして,自分の指導するゼミに属し,自分の専門とする分野に興味と関心を持つ学生ではないか。その学生たちに,一般の学生たちにも増して十分な知識を与え,問題意識を発展させ,意欲的な課題を与えないでおいて,ただ「試験結果は不合格」だった──などということがどうして平静にできるのだろうか。再度,理解に苦しむ,と言うほかない。
理解できない僕の方が間違っているのだろうか。
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by kriminalisto | 2005-07-28 21:52 | 日記・コラム・つぶやき

『コカイン・ナイト』

祇園祭りの宵山から大文字の送り火まで──これが京都の夏の中の夏だ。いよいよそれに差し掛かって,このところ毎日暑い。
ここしばらく,体調その他諸々でこのブログに向かう気力を失っていたのだが,このままではずるずると夏休みに入ってしまいそうなので。
通勤電車+バスの中での読書の,最近の収穫はJ.G.バラードの『コカイン・ナイト』。翻訳がすでに2001年末に新潮社から出ていたものが,最近,文庫本として発売された。『結晶世界』などのバラードのSFは読んだことがあるが,それもずいぶん昔のことで,正直,彼のこの系統の作品にはなじみがなかった。書店の棚に見つけて,さして期待もせずに読み始めたのだが,これは予期しない発見だった。
この本の内容は,南欧スペインの高級保養地を舞台としたミステリー仕立てとなっている。イギリス人の旅行作家チャールズ・プレンティスが,この地に足を踏み入れ,重大な放火事件の犯行を自白した弟のことばを信じずに,真犯人さがしを試みることから物語りは始まる。弟を知る人の全てが,心から弟の無実を信じているらしいことがわかるが,それでも,弟の自白をそのままそっとして,イギリスに帰るように勧める。やがて,チャールズには,この地上の天国を思わせるような,主にイギリスの退職したエリート層のために作られた高級住宅地に,巧妙に組織された悪徳のネットワークが存在することがわかってくる──
弟が責任者を勤めていた「クラブ・ナウティコ」を中心に,スポーツクラブや麻薬,売春ににぎわう保養地エストレージャ・デ・マルとそれに隣接する閑静な高級住宅地域・引退したブルジョアが過ごす集合住宅地域レジデンシア・コスタソルとの対蹠的な図式が巧妙だ。後者こそは,一つのありうべき未来を象徴する場所に他ならない。張り巡らされた監視カメラと万全のセキュリティシステムによって過剰なまでに保護された,この閉鎖社会では,まだそれほどの高齢でもないのに,事実上社会の全てから引退した住民たちが生きる気力を失い,音を消した衛星放送の画面をぼんやりと眺めるだけの「仮死」状態に陥ってしまったような世界,そこには子供の姿もまったく見当たらない。
これは異常であり,断じて拒絶されるべきだ,人々をそこから取り返し,世界に参加させなくてはならない,とチャールズにボビー・クロフォードが言う。この,見る者すべてを魅せずにはおかないスポーツマンこそ,類まれな弁舌の才と行動力に溢れた,アジテーターであり,また実際の指揮者・組織者なのだ。彼は言う,犯罪こそがそんなまどろむ共同体を活気づける「中枢神経刺激剤」だ,と。

近い未来のわれわれの生活が,ここで描写されるような満ち足りたものになるとは信じられないが,それでも,過度の監視と配慮の下に組み立てられた安全が社会の活力を奪ってしまうというメッセージは明瞭に響く。言い換えれば,適度の危険と犯罪への不安は,健康な社会に必須の同伴者なのかもしれない。
いくつかの書評に斜めに目を通したが,多くの評者が,ここに描かれた反ユートピアの予言的なリアリティと,その破壊を実践しようとする「カリスマ」に言及している。言われるように,弟フランクの自白をもたらした彼の罪の意識の正確な分析も興味あるテーマだろう。
だが,不思議と一つのことを指摘した書評はなかった。読むにしたがって,クロフォードとスタヴローギンとが,ときに重なり合い,ときに対話しているかのような感覚に,たびたび捉えられたのだが。
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by kriminalisto | 2005-07-17 20:08 | 日記・コラム・つぶやき

性犯罪者の前歴情報の公開制度

 昨年末の奈良での女児誘拐殺人事件を契機として,わが国でもメーガン法のようなものを作るべきだとの主張が聞かれることが多いが,この点について,藤本哲也教授が積極的な検討の必要性を指摘し(『罪と罰』42巻2号),また諸外国の制度を紹介している(『警察学論集』58巻5号)。難しい問題だが,僕はこの種の制度には否定的だ──性犯罪だけを特別扱いする理由はなく,いったんこの種の制度ができれば,殺人,詐欺,窃盗と,全ての犯罪について前歴情報を公開せよということになることは必至だ。「隣りは何をする人ぞ」ならぬ「隣りは何をした人ぞ」と,疑心暗鬼に駆られて隣人たちの旧悪を暴かずには居れなくなるだろう。そして,一度何らかの犯罪にかかわった人間は決定的なスティグマを負わせられ,社会的には死を宣告されたも同然のことになるだろう。コンピュータ,インターネット,そして「住基ネット」。どこへ逃げていくこともできない。
 ここにおいて,刑罰は犯罪問題の処理という,きわめて重要な機能を失い,極端な執念深さで罪人を追い詰める報復手段となるだろう。
 そのことに比べれば,かつての優生保護法が定めていた「優生手術(断種)」や外国に適用例のある「ホルモン治療」の処置の方がはるかに「人道的」なのではないだろうか。

 学生から,次のような質問があった。
 「性犯罪者についての情報開示制度は,最近それと同時に言われている刑務所や更正施設のプログラムを根本から見直そうという事とは,相反するものだと思うんですが,どうなんでしょうか? 仮に在監中の性犯罪者に更正の目途が立ったとして,社会に戻ったときに待っているのが開示制度による村八分的な状態ってゆうのは.... 更正プログラム見直しの意味が無くなるんじゃないかと。」
 また,別の学生の意見:
 「もともと,ニュースの実名報道ですら(未成年・成年を問わず)議論の余地が在るのに,出所後の実名住所等の公表・近隣への告知の更生に悪影響を及ぼすおそれがより高いことは言うまでもないでしょうね・・・・・ 地域住民との関係も,うまくいくはずがないと思います。本当に矯正されてきたのかも知れない人が,もしかしたら,捨て鉢になってしまうかも知れません。この問題についての議論は平行線を辿っているのだと思います。始めから,情報開示派の人にとって性犯罪者の更生ということは考慮の外,二の次,三の次なのでしょう。」 「難しい問題ですね,ただ,更生して出てきた(であろう)者に対し吊るし上げにも似た行為はしたくないし,かといって,高らかに矯正・更生の原理を謳い,(妻を屍姦され,幼い子供を惨殺された)遺族の夫を罵倒するようなこともしたくはない。」
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by kriminalisto | 2005-05-31 21:02 | 日記・コラム・つぶやき

『民衆から見た罪と罰』

 興味深い本が登場した──このたび花伝社より刊行された村井敏邦教授の『民衆から見た罪と罰』だ。
 元になっているのは,教授が1998年から2000年にかけて法学生向けの雑誌『法学セミナー』に連載した文章だが,残念ながらその当時には気がつかず,今回初めて全体を通して読むことができた。
 読んでの感想は,単に「興味深い」ばかりでなく,驚くばかりに充実した内容の好著だというものだ。日本の古典からドストエフスキー,聖書に至るまでの広大な分野にその素材を求め,興味深い事実とその分析を示して,民衆(非法律家)の目から見た犯罪と刑罰,刑事裁判,司法制度などを浮かび上がらせている。
 村井教授といえば,学界その他で活躍しておいでだし,連載の頃はたしか刑法学会の理事長ではなかったか。その忙しいさ中に,よくこれほどに多くの文学作品(とくにわが国の古典)に目を通されたものと感心する(もちろん,にわか仕込みでなく,普段からの素養だろうが,それにしても文章化する際には元の文学作品などを読み返して確認されただろう)。到底,われわれにはまねのできない作業だ。
 学生諸君にも推薦したいと思っているが,それ以前に,ここ数日の通勤の往き返り,僕自身が楽しく読ませてもらった。
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by kriminalisto | 2005-05-18 09:16 | 日記・コラム・つぶやき

4月は苛酷な月

 昔,小学校の校長先生が3学期の冒頭の朝礼で「1月は行く,2月は逃げる,3月は去る」という言葉を引きながら,寸暇を惜しんで勉強するようにと訓示を垂れていたことを覚えているが,その伝で行けば「4月は死ぬ」とでもいうのだろうか── なんとも慌しく,さまざまな雑事に忙殺される中で4月も終わる。落ち着いて桜を見ることもなかった。
 法科大学院の学生に呆れられてしまった持ちコマの多さはさておき,新しい科目に緊張を強いられている。実務家の教員と一緒に実体法と訴訟法との融合問題について演習を指導するのだが,準備の量は並大抵ではない(学生もそうだが)。まいったまいった,といったところ。
 それにしても,先のトレンドマイクロ事件に驚いている間にJRのとんでもない事件が起こり,すべて人間のなすことに誤りの起きないはずはないということが再確認された気がする。長い連結だと1,000人を超える乗客を乗せた列車が,一人の運転士の判断と技能に委ねられ切っているということは,はたして尋常なことなのだろうか。生身の人間であればそこに僅かでも誤りの可能性は払拭できず,その安全策として複数の人間を運転席に配置し,あるいは些細な異常でも感知して列車を停止させたり減速させる装置が配されたりするのだろう。今回の場合はどうだったのだろうか。
 失われた方々の人柄を,想い出を語り,事故を起こしたJRの対応をなじる人々の姿がこの3日間絶え間なくテレビで流されている。残酷なことだ。
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by kriminalisto | 2005-04-28 23:46 | 日記・コラム・つぶやき

性犯罪者の更生

  今の時期,雨が続いた後の晴れた風の強い日,というのは花粉症にとっては最悪のコンディションだ。鼻をかみすぎて鼻の下は赤くただれ,目は腫れぼったい涙目で── 考え事など全くできない。

  先日,性犯罪者の更生というのは難しい問題だ,出来上がった人格の改造などどうして可能だろうか,と書いたら,学生から反論を食らってしまった。彼の言うのは,犯罪者の「更生プログラムは元性犯罪者の再犯を防ぐことが目的であって、彼らの性的嗜好自体を変える必要はない」のではないか,であれば,そのことは可能なのではないか、ということだ。いいところをついている。ついでに,彼は「そういった目的の更生プログラムや治療は許されない」とも主張する。それは本来的な人間存在のあり様に手をつけようとするものだから。
  上のような意見には喜んで賛成するべきだろう(人格の尊厳,絶対の自由よ讃えられてあれ)。
  しかし問題は,この種の犯罪者たちの場合,彼らの犯罪とその性的嗜好とがあまりに強く結びついていて,後者に手をつけずに前者の改造が可能か,という辺りにあるのではないだろうか。たしかに,いわゆる「ロリコン」や「×××フェチ」の男性は掃いて捨てるほどいて(その手の読者をターゲットにした雑誌やビデオといった商品の存在でも明らか),しかしその大部分は実際には犯罪には出ない。であれば,性犯罪者をその程度にまで更生させればよいのだ,と言うのだろう。しかし,そこに存在するのは「程度」ではなく「性質」なのではないだろうか── つまり,標準からは外れた性的嗜好を持ってはいても,なお「境界内にとどまる」性倒錯者と,その嗜好上必然的に「犯罪に至る」性倒錯者とがあり,両者はもともと違った性質のものなのではないだろうか。
  「境界内にとどまる」性倒錯者は,犯罪的な妄想を膨らませることはあっても,めったにそれを実行に移さないのであり,だからこそ,彼らを常に性犯罪者予備軍と見る必要もないのだが,「犯罪に至る」性倒錯者の場合は,そのような想像力自体を欠き,犯罪的行動によって直接に自分の性欲を満足させることをめざすのだ。そのような嗜好であり,倒錯であるのだ,と考えるべきなのではないだろうか。であれば,後者の「更生」はいかにして可能なのだろうか。
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by kriminalisto | 2005-03-19 20:45 | 日記・コラム・つぶやき

ガロア──神々の愛でし人

 今朝の毎日新聞「余録」欄を読んで驚いた。ここ。東京の中学生ら6人が一定のルールを決めて殴り合いをしたことが決闘罪にあたるとして検挙されたというニュースに関連して,「決闘罪ニ関スル件」について触れたコラムだ。
 驚いたのはわが国での決闘罪の運用についてのくだりではない。決闘罪が実務に時おり登場することは,"業界"では常識だし,過去の判例集を検索してみても相当数がヒットする。
 そうではなくて,このコラムで僕の驚いたのは,有名なガロアの決闘事件が,「最近の伝記では、何とその死をきっかけに共和派が暴動を起こすため、ガロア自らが提案した偽装決闘との説が唱えられた」という部分だ。まさに,「にわかに信じがたい」というほかないが,彌永昌吉著『ガロアの時代・ガロアの数学』(シュプリンガー・フェアラーク東京)を読むべきなのだろう。
 僕の手もとにあるのはL.インフルト著『ガロアの生涯』(日本評論社1969年)だが,取り出して奥付を見ると,「1972年3月3日読了 Yk.のことを想う」という僕の書き込みがある。一瞬,当時の百万遍の下宿の自分の部屋に戻ったような錯覚が襲う── この本は当時の学生たち(の,もちろん,一部)にとっては一種のバイブルだったものだ。20歳で決闘に倒れた不世出の数学者,熱狂的な共和主義者。読み終えての僕の感想はさまざまにあったに違いない。上の書き込みは,遠く離れて,当時の僕と同じように,たしかなものを求めてあがいているに違いない,尊敬する,数学の才能に溢れた,しかしさまざまに悲運な友人のことを想ってのものだ。だが同時に,おそらくは,自分自身を待ち受けているであろう,大きな黒いもののことを想い,それに身構えていたのだろう。
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by kriminalisto | 2005-03-06 00:37 | 日記・コラム・つぶやき

生もの商売

 春一番が吹いてその翌日には雪が降るような,不安定な天候の中にも,通勤路の傍らには梅が薫り高く咲き誇っている── 確実に春に近づいているのだ。と,のんびりしているわけでもなく,学部と法科大学院との入学試験やら修士論文の審査などで,それなりに慌しい間を縫って,何とか原稿書きの時間を見つけようとあがく毎日だ。
 そのさ中,出版社より教科書の第二刷が刷り上った報告があり,見本2冊が届いた。最も気になっていた,心神喪失者医療観察法関係の不正確な箇所がこれで訂正され,ほっとした。この際,それ以外にもいろいろと手を入れさせてもらった。
 しかし,昨今の世相もあって,犯罪学の分野では立法と実務とそれぞれに動きが激しく,気を抜くとすぐさま情報が古くなってしまう。まさに生ものを扱っている感がある。
 先日,安城市の事件に関連して書いた,「更生保護会の施設を6ヶ月間は保障する」との記述も,間違っていた:犯罪者予防更生法の2002年の改正で,必要な場合,さらに6ヶ月の滞在が可能となっていたことを見落としていたのだ。
 この調子では,まだ多くのミスがあるのではないかと怖くなる。
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by kriminalisto | 2005-02-25 00:51 | 日記・コラム・つぶやき

イノシシと間違えて豚を射殺

 まあ,考えようによってはこれも殺伐とした事件だが,ネット上の配信記事で目に付いたのがこれ
http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050218i315.htm
 鳥獣保護法や銃刀法違反の点を除くと,これは単なる窃盗のように思うのだが── つまり,近所の豚舎から逃げ出した豚なのだから,これはまだ所有者の占有が続いていると見るべきだろう。それとも,茨城県警大宮署はこれを「逸走ノ家畜」(遺失物法12条)として占有離脱物にあたるとしたのだろうか。しかしそうであっても,刑法254条の罪は成立するように思われるのだが。
 イノシシだと思って飼い豚を射殺した、というのは「客体の錯誤」の問題。したがって過失の器物損壊罪(刑法261条)だけが残り,それは不可罰(過失器物損壊罪などは無い)。これが逆で,飼い豚を射殺しようとして,撃ってみたら(野生の)イノシシだったというのであれば,器物損壊罪は未遂で,これまた不可罰となる。教室での事例としてもいまひとつ面白くないか。
 捕まった男は,仲間と計4人で早朝からイノシシ猟に来ていたが成果が無く,車で帰宅途中に畑にいた豚をイノシシと見間違えて発砲した,とのこと。調べに対し,「仕留めてから豚と気づいた。誰かが飼育していると思い,慌てた」と話しているが,件の豚は別の場所の河原で解体して,ちゃんと持ち帰ったという。仲間と分けたかどうかは不明。
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by kriminalisto | 2005-02-18 22:54 | 日記・コラム・つぶやき

今度は寝屋川市の小学校で

 2月14日午後,大阪府寝屋川市の市立中央小学校に包丁を持った男が侵入し,校舎2階の職員室にいた教職員3人を刺し,うち1人を刺殺した。児童らにけがはなかった。110番で駆け付けた寝屋川署員が,職員室にいた市内に住む17歳の少年を現行犯逮捕した。現在のところ,少年は調べに対し黙秘しているとのことで,詳しい状況や動機などは不明,とテレビが伝えている。 
 誰もが2001年の大教大付属池田小学校の事件を思い起こしたことだろう。あの事件の場合,犯人・宅間は"エリートの子供"への反感を理由として口にしていたが,本当のところを語りつくさないまま死刑になってしまった。あの事件以来,さまざまな対策が採られたはずなのだが。同時に,新聞やテレビを騒がせる学校侵入事件もあとを絶たない。
 文部科学省が昨年発表した数字では,02年に外部者が学校に侵入した事件は2,168件に達したとされるが,学校が狙われる理由は無防備な犠牲者になりやすい児童がたくさん集まっているからだろう。学校の地域社会への開放が必要と指摘される一方で,学校の安全をいかに確保するかという,困難な課題の解決に迫られているわけで,今後,たとえば警察官や父母の校内パトロールなども導入を迫られるかもしれない。
 しかし,今回の少年が狙ったのは教師だけだったようだ。少年は同小の卒業生で,今回も特定の教員に会いたいと申し出て,教員室へ案内する教員の背後から襲いかかったというが,彼の中には何らかの恨みが凝縮されていたのだろうか。しかし,17歳の少年というが,高校生でも有職者でもないようで,そのこと自体すでに,何か複雑な事情がありそうでもある。
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by kriminalisto | 2005-02-14 22:30 | 日記・コラム・つぶやき