カテゴリ:日記・コラム・つぶやき( 54 )

日程管理はPapyrusで

もう8月になったというのに,一向に「休暇」に入れない。書かれるべき原稿のことや,教科書の改訂の作業のことが,会議の合間に頭をよぎるが,その前にレポートと答案の採点を済まさなくてはならない。
スケジュール表を眺めては,なかなか時間が取れないことに,自分でも機嫌が悪くなっていることに気づく。
中国の山東大学から,「国際組織犯罪」に関する国際シンポジウムへの招待が届いたが,10月中旬のその時期に大学を空けることができるとは到底思われない。
そういえば,手帳を持たなくなってもう4年目になる。最初はSonyのClieを2年半ほど,それに代えてNokia 6680=Vodafone 702NK2を1年余り使い,そしてこの春からは Nokia E61 へと移行した。そのつど,新しい機能に心をときめかせ,惚れこんで来た。この E61 は,日本語版をSoftbankが発売するのを3月まで待った挙句に,「法人契約でなければ売れません」と言われ,職場の事務に持ちかけて買ってもらおうかなどとも考えたのだが,「えい,面倒くさい」と思い切って Nokia の日本法人から直接自分で買うことにした次第。http://www.nokia.co.jp/phones/e61/index.shtml 702NK2のSIMカードをこれに差し替えて,従来と同じ携帯電話として使っているのだが,このE61のすごいことは,それ単体で無線LANの端末として機能することだ。自宅や職場だけでなく,JR駅などのHot Spotでもメールの確認やブラウザ検索が可能だ。6680との決定的な違いは,小さいがQWERTYキーボードがついていることで,ちょっとしたメモをとることも苦にならない。MS Officeの文書を閲覧できるとかe-Bookを読んだりダウンロードした前夜のブレーミャのニュースを聴くこともDivXビデオを観ることもできる。
そして,スケジュール管理はもっぱらPapyrus(シェアウエア)でやっている。

大概のことはできる,と折を見て周囲にも勧めるのだが,なかなか同調者が現れない。僕の方がおかしいのだろうか。
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by kriminalisto | 2007-08-04 20:26 | 日記・コラム・つぶやき

祇園祭から大文字まで

人ぞ知る京都の夏の炎暑だが,この地の人々は「大文字までのこと」と言い合って,8月16日を待ちかねている。それにつけても,昔の僕が,百万遍近くの下宿のクーラーもない西向きの一部屋でよくこの夏の期間を耐えたものだと思う。
気がつくと7月も終わりで,5ヶ月以上もこのブログを放ったらかしにしていたことになる。──3月の初めから,ちょっと重たい役職に引っ張り出され,予想通りに生活が一変したことの,これは結果なのだが。
この間の生活の変化の中で,最も大きなことは時間の密度の変化だろうが,それは単に,いわゆる「研究」にあてる時間の絶対的な減少ないし消失だだけでなく,さまざまの事務に気力を奪いつくされ,机に座りながらも何も手につかないというような場面の増加にもあらわれている。まあ,繰り言はいうまい。

何人かから「壊れ窓」ならぬ「壊れブログ」だと注意されたこともあり,少しは心を入れかえて,適宜のメンテナンスを怠らないことにしたい。とはいえ,授業は終わったはずなのに,一向に暇にならないこの現状を何としたものか。
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by kriminalisto | 2007-07-27 22:25 | 日記・コラム・つぶやき

ラリーサ・レイスネル

同僚のI教授にペトラジツキーのことを尋ねられた:彼の書いたものを,できれば英語のものを所持していないか,と。法と心理学について論じる際には,まずもってペトラジツキーの研究を参照する必要がある,と主張する英語論文を読んでいるのだということで。ロシア語版Googleで検索,ペテルブルグ大学の法哲学教授でカデット(立憲君主党)の大立者,ロシア革命後はワルシャワに亡命,などの基礎事実をI教授に伝え,残念ながら手もとに文献はない,と。

ペトラジツキーにまつわる一連のことが,その時すぐに思い出されなかったこと自体,僕がどれほどあの時期から遠ざかってしまったかを露呈するものだろう── 夜,就寝前にいくつかのことを思い出し,愕然とした。
レイスネルの師ではないか。

革命ロシアの法学界においてユニークな立場を占め,「革命的直観法」概念を提唱して立法領域にも強い影響力をもち,有名な「裁判所に関する布告第一号」は彼のイデーを反映したものだといわれた,ミハイル・アンドレヴィッチ・レイスネル。ワルシャワ大学法学部に学び,キエフ大学,トムスク大学などで授業を持つ一方で,革命運動に関与したとして国外追放になり,1905年に帰国後はペテルブルグ大学などで教鞭をとっていた。彼はペトラジツキーの「直観法」理論に強く共鳴したが,それはペトラジツキーが法現象の最基底に存在するものとして法意識を捉えたことによる。レイスネルの理解では,法意識の主体は具体的な人間であり,その具体的な人間は現実の社会において否応なく経済的,社会文化的な利害関係の狭間におかれるところから,平板一律な法意識などは存在しえず,それはまさに階級的な性格を帯びた複数の法意識として立ち現れるのだ。そして,ロシア革命において勝利した労働者・農民の携えていた法意識こそ,新生ロシアの法現象を貫く「革命的法意識」として,すべての立法活動と法執行の基礎に置かれねばならない。後に,「法のモザイク理論」として批判されることとなるレイスネルの主張であるが,ロシア革命直後の激動期にはその与えた影響力は絶大であった。

それらのことを追いかけていた当時,まだ若かった僕にとって,さらに印象深かったのは,むしろその娘,ラリーサのことだったかもしれない。ワルシャワで生まれた彼女は父に従って10歳でペテルブルグに移り,革命と戦争の時代の中で青年期を過ごし,10月革命の後の国内線の時期には,ボリシェヴィキ党の政治宣伝のために全国を駆け巡り,コミッサール(政治委員)として東部戦線にも赴いた。前線でのフョードル・ラスコーリニコフとの出会い,ネップ期に大使としてアフガニスタンに派遣されたラスコーリニコフとともに滞在したカブールでの日々,モスクワに帰ってのカール・ラデックとの恋,そして未だ30歳の若さでの死──チフスだった。 大きな帽子をかぶり,少し首をかしげながらこちらを見ている彼女の写真が,わずかに記憶に残っている。
しかし,最初に彼女のことを読んだのはどこでだったろうか。エレンブルグの回想録? それともマヤコフスキーの関連でだったか?
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by kriminalisto | 2007-02-15 14:42 | 日記・コラム・つぶやき

Nokia E61

Vodafone=Softbankの携帯電話を使っていた娘が,機種を更新する機会に僕と同じNokiaのスマートフォンにしたいということで,各機種の比較。最近発売された”Softbank 705NK=Nokia N73”に決めたのだが,その紹介記事を見ている際に,偶然,目にとまったのが”Nokia E61”だ。 http://www.nokia.co.jp/phones/e61/index.shtml これは面白そう,欲しい,と気持ちが騒ぐ。
Sony Clie を諦めて,Nokia6680=Vodafone 702NK2 に乗り換え,これで日程管理までやろうとして1年が過ぎたが,やはり,日常的に困惑しているのは,2点:ディスプレイの小ささとテンキーでの日本語入力の非力さだ。これが多少でも改善されるのであれば,E61 に乗り換えようか,と考え込んでいる。ちょっと高いか,それに,発売早々在庫切れとのことで,しばらくの余裕はあるようだし...
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by kriminalisto | 2007-01-13 12:12 | 日記・コラム・つぶやき

気の重い年明け

例年のこととはいえ,通り一遍の年賀の言葉とかき集められたタレント達のばか騒ぎが延々と続くと,ニュース番組が終わると同時にテレビのスイッチを切ることになるのだが,1月1日夜のNHK地球特派員スペシャル「地球マップ2007 “格差”と“競争”にどう立ち向かうか」(NHK BS1)は,例外的に,見応えがあった。グローバル化の歪みを視覚化した“地球マップ”を使いながら,手前勝手な「グローバリゼーション」の合言葉の下に強引に推し進められる国際的な収奪と国内での格差拡大の実態を描き出していた。姜尚中,伊藤洋一,江川紹子,榊原英資といった面々がイギリス,アメリカ,メキシコ,中国などの現状をレポートしながら,(もちろん多くの点に温度差を伴いつつ)この眼前の混乱をどう捉え,それにどう対処するかを論じていた。まさに,「勉強になった」が,同時に,もどかしい思いも残った。

番組では触れられなかったが,グローバリゼーションによって生まれた“格差”と“競争”に対する,もっとも尖鋭な形での反応が犯罪だということも指摘されるべきだろう。
貿易市場の拡大が経済法則からする必然であり,その地球規模化は早晩予想されていたことであるとしても,それに犯罪現象の拡大が随伴するとの予測は,これまで語られてこなかった。
しかし現実に生じているのは,多様な背景をもつテロ犯罪の流行,地域紛争や宗教的な紛争にともなう人権侵害あるいは難民の大量発生,そして,麻薬・薬物などをはじめとする国際的な犯罪組織の暗躍などといった,各種の国際犯罪の噴出だ。かつての冷戦構造の世界においては,東西の両陣営の内部において強権的に押さえ込まれ,あるいはイデオロギー的に収斂・表出を妨げられていた各種の民族的な利害や宗教的・文化的な志向が,そのたがの外れたことによって生じた(地域的な)権力の空隙を狙って,各種の組織形態をとって自由な活動を開始した,その一つの表れが各種の組織犯罪なのだと見るべきだろう。具体的な犯罪被害は,先進工業諸国において,テロ被害や薬物依存の拡大として注目され,それ自体が新たな社会不安と排外主義的な風潮をもたらしているが,被害は,しかし,実際には欧米諸国以上に中東や東南アジアの諸国において深刻だ。テロ攻撃の矛先はまずもって同じ地域に住む異民族や異教徒に向けられ,外国資本と組んでの天然資源の囲い込みが暴力的に行われ,人身売買の被害者はとりわけてそれら諸国の女性や子供だ。弱体でときに腐敗し未整備な権力機構は地域社会の安定も住民の安全も護ることができず,国境管理も不十分なまま、犯罪組織の活動を野放しにしている。のみならず,紛争により生じた難民を劣悪な環境にさらし,また伝統的な経済構造の崩壊により多数の失業者を生むことによって,犯罪組織の構成員を不断に補充している── これもまた,明白なグローバリゼーションの「成果」とされなくてはならない。

この,圧倒的な雲海に地上のすべてが飲み込まれていくような未来図を前に,われわれはどう抵抗できるのだろうか。気の重くなる2007年の年明けだ。
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by kriminalisto | 2007-01-02 13:03 | 日記・コラム・つぶやき

原稿の期限からの連想

われわれのような年代になれば誰でも,一つや二つは,あるいはもっと多くの,気がかりなことを抱えて毎日を過ごしているものだろう。その場合,むしろ不思議なことは,それでも普通の生活を人々は営んでいることの方かもしれない──いくら気がかりなことがあっても,それだけで煮詰まってしまえないのだ。
こんなことを思うのも,現在編集中の論文集に,予定通りの期日を過ぎてもなかなかに原稿が集まりきらぬことがあるからだ。出版社との約束の期限の「本当の限界」が近づく一方で,「書けない」ので「もう少し待ってほしい」との言いわけや,あっさりと,督促のメールへの無反応が続く。気の弱い僕としては,ただひたすらに「お願い」し,いらいらを募らせるしかない。
「そんな本の編集など引き受けなければよいのに」,と能天気に家人はのたまうが,科研費の後始末やら何やらの儀露とかで,首の回らないこの状態をわかってくれというのは無理なことなのだろうか。

しかし,考えてみると,原稿の期限を守る人とそうでない人というのは,まったく違った"人種"で,ことほどさように他の局面でも,期限あるいはより一般的に約束ということに対する構えが違うような気がする。僕自身がかかわってきたいくつかの共同作業を思い浮かべてみて,確かにそうだ,と思う。
これはどういうことなのだろうか。
何か,幼少期に強い印象を与える原体験があって,期限や約束は守らなくてはならないということをその人格の基層に刷り込まれた人とそうでない人となのだろうか。あるいは,もっと以前に,いわば遺伝的に決定された"几帳面さ"あるいは"誠実さ"といったその人の人格そのものの特質に由来するのだろうか──

かつてN先生にうかがった瀧川先生の言葉:人の生は結局は時間なのだから,約束に遅れた貴君はその時間の分だけ私の生命を奪ったのだということを知りなさい── 凄いとしか言いようがない。もし自分の先生にこう言われたら,僕など,そのままビルの窓から飛び降りるか,少なくとも,大学も職場も捨てて郷里に引っ込んでしまうだろう。
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by kriminalisto | 2006-11-16 00:21 | 日記・コラム・つぶやき

「べトンの要塞」

学会とあって,久しぶりに中央大学多摩キャンパスへ。ますます建物も増え,要塞は拡張の一途をたどっている。立川駅からのモノレールが繋がり(2000年のことらしい),格段に便利になったが,そのためにますます非現実的な空間になったような気がする──モノレールの駅に降り立つと,周辺に民家の一軒も喫茶店の看板も見ることなく,そのまま直接にキャンパスに入ると,この日はたまたま「ホームカミングデー」ということで,白く輝く無機質な建造物群の間に,多くの卒業生らしい年配者が集っていた。ここが彼らの「ホーム」だというのは,何かの冗談のような気がしたが。
もちろん,勉強するのには最上の環境だ,ということなのだろうが,30年近く前に初めてキャンパスを訪れた時の印象が薄れない。
学会のほうは,まあ,研究報告もシンポジウムも,それなりに興味のある内容で,勉強にはなった。
そして,何人かの知己にかけられたのは予想通りの言葉──新司法試験の結果に関わっての「大変だったね」だった。彼らがどんな気持ちでそのように言っているのかは,あえて,斟酌しないことに決めてはいても,当方の身に応えることに変わりはない。
この間にいろいろの「反省」と「検討」があり,「見直し」や「改善」,「強化」の作業が進められたが,僕個人にとっては何ごとも救いにならない。何よりも,指導した学生たちの中の不合格者たちの顔が思い浮かぶのだ;その誰一人として,恨みがましい非難を口にしないだけ,なおさらに僕自身の自責の気持ちは強まる。もっと厳しく,もっと的確な,指導を重ねるべきだったのだ。お互いに未経験とはいえ,少なくとも教師として,全国的な状況と彼らの力量とをより客観的に見ることができたはずだし,できなかったというのであれば,それをするための方途を尽くすべきだったのだ。この露呈された力量の不足をどう埋め合わせればよいのだろうか── 
法科大学院の制度としても,未修者第一期生が出揃う来年の試験が,おそらく,最後の検証の開始を告げることになるだろう。いかにその時に臨むか,いずこの大学も悩みは深いはずだ。
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by kriminalisto | 2006-10-23 19:57 | 日記・コラム・つぶやき

当事者主義の訴訟は

ちょっと確認したい点があって,学生時代から手もとにある平野龍一博士の刑事訴訟法の教科書を開くと,「当事者主義の訴訟は,合理的な精神を前提とする。」との一節が目に飛び込んできた。
続けて,「当事者主義訴訟は,国家権力を悪とし,『権限を持つものには権威を与えてはならない,権威を持つ者には権限を与えてはならない』とする思想を背景とする。そしてはじめから(すなわち,捜査機関の)権力の行使を制限しようとするのである。しかし,現在の都市化し,社会化した国家においては,国家権力をただ排斥するだけでは,すまされない。捜査機関に多かれ少かれ,権限を与えざるをえなくなる。これを否定して当事者主義の形骸だけを維持しようとすると,権力は法外の暴力となり『保障のない糾問主義』(Inquisitorial system without its guaranty)となる危険もある。そこで,むしろ権力に権限を与えて,そのかわりにこれを法的にコントロールした方が得策ではないかという問題がおこる。」
懐かしい平野先生の肉声を聴く思いがする。奥付で確認すると1958年初版・1967年初版第19刷となっている。であれば,現行刑事訴訟法の施行10年ほどの時期に,気鋭の刑事訴訟法学者としての先生が書かれた文章だということになる。正直,すごいなと思う。
この一節には,当時よく使っていた青い色鉛筆で傍線が引かれている── が,20歳になったばかりの僕は,何を理解したつもりになっていたのだろうか。

学部学生のコンパに付き合った後,これから季節はずれの花火で遊ぶという彼らと別れ,久しぶりに先斗町のウオトカ・バーへ。意外にも客は誰も居らず,ゆったりとマスターのNさんと世間話。最近はこれが人気があります,と勧められた《スタンダルト》は,たしかにずしりと手応えのある味だが,何かしら特徴がない。《スタリーチナヤ》を重くしただけのような感じ。これがスタンダルト(基準)か,と思うとつまらない。むしろ《デルジャーヴナヤ》の方が,僕には好みだ。まあ,実際には,ラベルそのままに颯爽とした《クバンスカヤ》を味わうことができないのなら,何でもよいのだが。
もっぱら《デルジャーヴナヤ》を注いでもらい,当事者能力の残っているうちに帰宅。
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by kriminalisto | 2006-10-04 09:56 | 日記・コラム・つぶやき

腎臓を売る

メディアが一斉に伝えるところでは,愛媛県で昨年行われた生体腎臓移植手術をめぐって,臓器売買の事実があり,臓器移植法違反で元患者と仲介者の2名が逮捕されたとのこと。( http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061001it11.htm )
約束した対価が実際に支払われなかったことから,臓器提供者が警察に相談するなどして発覚したようだが,やはりそうか,という感想だ。
一方に臓器を必要とする人がいて,他方には提供したい人がいる──問題は,その両者の間に存在する経済的な格差だ。移植医療は無料ではない。そして,間違っても,豊かな側が貧しい側に臓器を提供するようなことはないのだ。
腎臓移植手術の場合,健康保険の適用を受けても,予後の対応を含め1年で600万円程度の負担が必要とされている。となると,そのような医療を受けられる人と受けられない人とが生まれるのは当然だが,ここにはさらに,提供される臓器の少なさから来る「臓器獲得競争」が生じざるをえない。つまり,高い値段をつけた人のところに,優先的に臓器は行くのだ。そんなことはない,との叫び声が起こりそうだが,しかし,腎臓提供者を求め中国や東南アジア諸国で移植手術を受けようとする日本人が多く存在することをどう考えるべきなのだろうか。国内でも,実際には,今回の事件のような事例は多く存在したのではないだろうか。
「臓器移植ネットワーク」のような団体の活動が,きちんとした透明性を獲得し,日本社会で広く受け入れられるまでには,まだまだ時間がかかりそうだ。そしてその他方で,死後の臓器提供を自ら選ぶ人を,脳死論議の性急さが戸惑わせている。
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by kriminalisto | 2006-10-02 00:13 | 日記・コラム・つぶやき

ボロジンスキー

大学院生の中に勇敢なお嬢さんがいて,この夏,モスクワとサンクト=ペテルブルグを旅行して,無事帰国したとの知らせとともに,お土産の黒パンが届けられた。
ほっとして,嬉しかった──ほっとしたのは,彼女がともかくも無事に帰国したらしい(今度会ったときにいろいろと聞いてみよう)こと,嬉しかったのは,黒パンが到着したことだ。
何だ,パンのごときで,と言うなかれ,これはとても貴重なものなのだ。まず,日本では手に入らない。(横浜の「サンドリヨン」というパンやさんが,ほぼこれに近いものを作って,インターネットでも注文できるが,やはり本物ではない。) しかもボロジンスキー! ボロジノというのはモスクワの西100kmほどの村の名前で,そこのライ麦を使ったパンなのかもしれないが,それよりも,1812年のフランス軍との大会戦で有名な平原で,「ボロジノ」というのはロシア人にとって格別の思い入れがある名前らしい。それはともあれ,黒パンとしては超一級のもの。早速,ペーパータオルでくるみ,ビニール袋に入れて,冷凍庫へ。
これでしばらく楽しめる。
と思ったとたんに,不愉快なことを思い出した──クバンスカヤが無かった。
2000年頃から,日本ではなかなか買えなくなり,しかも,味が変わってしまった。かつてのような自然な風味が無くなり,機械的な味がするようになった。さりとて,アブソリュートのシトロンに乗り換えられるものではない。まったく別物だ。どうやってもう一度,本物のクバンスカヤにたどり着けるか..... 心の底でおそれているのは,もしかしたら,本国でこの銘柄が無くなっているのではないかということだ。
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by kriminalisto | 2006-09-09 14:52 | 日記・コラム・つぶやき