ラリーサ・レイスネル

同僚のI教授にペトラジツキーのことを尋ねられた:彼の書いたものを,できれば英語のものを所持していないか,と。法と心理学について論じる際には,まずもってペトラジツキーの研究を参照する必要がある,と主張する英語論文を読んでいるのだということで。ロシア語版Googleで検索,ペテルブルグ大学の法哲学教授でカデット(立憲君主党)の大立者,ロシア革命後はワルシャワに亡命,などの基礎事実をI教授に伝え,残念ながら手もとに文献はない,と。

ペトラジツキーにまつわる一連のことが,その時すぐに思い出されなかったこと自体,僕がどれほどあの時期から遠ざかってしまったかを露呈するものだろう── 夜,就寝前にいくつかのことを思い出し,愕然とした。
レイスネルの師ではないか。

革命ロシアの法学界においてユニークな立場を占め,「革命的直観法」概念を提唱して立法領域にも強い影響力をもち,有名な「裁判所に関する布告第一号」は彼のイデーを反映したものだといわれた,ミハイル・アンドレヴィッチ・レイスネル。ワルシャワ大学法学部に学び,キエフ大学,トムスク大学などで授業を持つ一方で,革命運動に関与したとして国外追放になり,1905年に帰国後はペテルブルグ大学などで教鞭をとっていた。彼はペトラジツキーの「直観法」理論に強く共鳴したが,それはペトラジツキーが法現象の最基底に存在するものとして法意識を捉えたことによる。レイスネルの理解では,法意識の主体は具体的な人間であり,その具体的な人間は現実の社会において否応なく経済的,社会文化的な利害関係の狭間におかれるところから,平板一律な法意識などは存在しえず,それはまさに階級的な性格を帯びた複数の法意識として立ち現れるのだ。そして,ロシア革命において勝利した労働者・農民の携えていた法意識こそ,新生ロシアの法現象を貫く「革命的法意識」として,すべての立法活動と法執行の基礎に置かれねばならない。後に,「法のモザイク理論」として批判されることとなるレイスネルの主張であるが,ロシア革命直後の激動期にはその与えた影響力は絶大であった。

それらのことを追いかけていた当時,まだ若かった僕にとって,さらに印象深かったのは,むしろその娘,ラリーサのことだったかもしれない。ワルシャワで生まれた彼女は父に従って10歳でペテルブルグに移り,革命と戦争の時代の中で青年期を過ごし,10月革命の後の国内線の時期には,ボリシェヴィキ党の政治宣伝のために全国を駆け巡り,コミッサール(政治委員)として東部戦線にも赴いた。前線でのフョードル・ラスコーリニコフとの出会い,ネップ期に大使としてアフガニスタンに派遣されたラスコーリニコフとともに滞在したカブールでの日々,モスクワに帰ってのカール・ラデックとの恋,そして未だ30歳の若さでの死──チフスだった。 大きな帽子をかぶり,少し首をかしげながらこちらを見ている彼女の写真が,わずかに記憶に残っている。
しかし,最初に彼女のことを読んだのはどこでだったろうか。エレンブルグの回想録? それともマヤコフスキーの関連でだったか?
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by kriminalisto | 2007-02-15 14:42 | 日記・コラム・つぶやき
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