Eのこと(続き)

 10年を隔てて再会したEは,こころもち左の足を引きずるような気配があったほかは,外見上はほとんど変わっていなかった。だが,当時のソビエト社会全体に吹き荒れた嵐の中で,何の変化もなかったはずはない──言葉の端々に,疲れ,いらだち,おびえ,といったものがにじみ出してくるような印象を漂わせていた。

 91年のモスクワ! もはやこの地上に存在しないあの世界を,そこに暮らしていた人々の生活と意識を,どう表現したらよいのだろうか。目の前のすべてが,毎日,少しずつ縮み,徐々にばらばらになっていくような.....  しかしさしあたりの所を一言で言ってしまえば,「静かな混乱」とでもいうべき落ち着きの悪さが支配していた。
  もう一人の知人,若いBはすでに「国家と法」研究所を辞めており,この時には流行の貿易商となっていた。それも,若い日本人女性が実家の支援で掻き集めた「円」を資本にし,自分や奥さん(ターニャ,どうしているのだろう)の兄弟を従業員にして,日本の雑貨を輸入するという,危なっかしい商法の。 まだ40歳そこそこなのに,不健康に腹が出はじめた彼の姿に,かつて,研究所の片隅で談笑した頃の彼の若々しい笑顔や,一緒にバーニャ(公衆サウナ)に出かけたときの会話とビールのジョッキ,スポーツ団体の随員として日本にやってきたときの三宮駅での短時間の出会いなどを思い出すことも難しかった。一体何があったのだろうか,といぶかしんだものだった。後になって,95年に彼が死んだということを聞いた後になって,彼の周囲で起きたさまざまの事を知る機会があったが,もう,その内容について語り合うこともできない。
  彼のことを考えると,今でも,涙が出そうになる。

  Eとの交際が決定的に途切れたのは,例のクーデター騒ぎのあったときだった。
  あの日,早朝に別の知人からクーデターが起きたらしいとの情報があって,テレビも沈黙している中,Eに電話したのだった。彼はまだ知らずに居て,「おっ」というような声をだしたあと絶句し,「調べてみて電話します」,といったきり,事件の決着するまで何の連絡もなかった。その後も,相当に長い間,彼からの連絡はなかった。
  たしかに,彼にとってこれは同情すべき事態なのだろうとは思う──その中に生を受け,長くにわたってその大義を奉じてきた体制の崩壊に立ち会っているのだから。しかし,Bが繰り返し言ったように,このような事態はその現場に滞在中の外国人にとっては,最高度に危うい,何が起きても不思議ではない瞬間の連続する危機そのものなのだ。せめて,何が起こっているかの情報の断片なりと伝えてくれてもよいではないか。妻も,事情をよく理解できぬ子供たちも,不安げにこちらを見て,判断を求めている── 
  考えてみれば,むしろ不思議だ。あのような状況の下で,よくパニックに陥らなかったものだと思う。それどころか,第一日の午前から,街の様子を見るためにクレムリン周辺やプーシキン広場などに出かけたのだから。しかし,Eへの不信の念はこのときに固まり,その後長らく残った。
  そのEも死んだ。

 そうか,あの日からもう14年も経ったのか。
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by kriminalisto | 2005-12-11 23:13 | 日記・コラム・つぶやき
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